パーマをかけました

このはてなブログは1年おきに更新するのでしょうか。

定点観測みたいでいいですね。

 

今日、パーマをかけた。オレンジ色にも染めました。

自分の髪の毛に手を加えることに抵抗がないですね。

よくよく考えると盛岡に来てから10か所くらい美容室を変えている。

7か所でした。

1回しか行っていないところもあれば、何回か通ったところもある。

担当してもらった美容師さんも様々だね。

バイト先もころころ変えていたなあ。

あんまり1個に固執しないみたいだね。

今のところは、年齢の近い友達に髪を切ってもらっているみたいでいい。

いいね。

 

タブレットを買ったが、日記を書いたり文章を書いたりする時にはキーボードがしっかりしているやつがいい。

脚本を書きたいな。

 

演劇をしていない時、普通の生活との狭間で揺れる。

普通の生活とは?だけど。

Twitterでちょうど、演劇をしている時の自分と、仕事をしている時の自分と、呑んで酔っ払っている時の自分、それが最近同じものだと思えるようになったっていう投稿があった。

わたしはいろいろと分裂させているみたいだからなかなかに難しい。

SNSのアカウントも複数個作ることで安心できる。

2021年の投稿で、SNSがいやだと言っていたが、もしかしたらいくつもアカウントを作ることで解決したのかもしれない。

 

岸辺露伴は動かない、もっと常軌を逸している内容なのかと思っていたが、露伴が一番常識人かもしれないと思っている。ここまで責任感と良心のある主人公だと思っていなかった。

高橋一生の肉体が美しい。

蟲師のような雰囲気もある。あとSPEC。

ジョジョの雰囲気が少しわかってよかった。

 

たなかみさきさんと前田エマちゃんがラジオしてたり、星野源のラジオで土井善晴さんと共演してたり、すごくいい。みなさま本当によくお仕事をしていらっしゃる。

ライフスタイルについて長々と模索している。

今日、雑誌を読んで学んだことと、健康に関する今の見解について書き記します。

①20代前半がホルモンのピークなので、30代になったら食べる物から見直せ。

ホルモンに影響するのは、食べ物、生活習慣、運動。

②一汁一菜。具だくさんのお味噌汁とごはん。

お野菜と発酵食品とお湯。あと、お米。が理想の食事。品数は作れない。

野菜いっぱい、きのこいっぱいのお味噌汁が一番楽しいお料理。

③3食食べる。ごはんは抜くな。ちゃんと食べることで体内のリズムが整う。

体内時計がずれるのは感じる。あと、ごはんを食べないと体温がすごく低くなるのを感じる。

 

食べ物の好みが変わったね。粗食が好き。

お肉もお魚も胃が難しい。運動をしていないから、身体が求める物も大きく変わった。

いややはり、年齢も関係しているのかな。いつまでも中学生の基準でいかんね。

今にアップデートしましょう。得たものを捨てるとはそういうことだ、きっと。

 

④5分の筋トレの後に、15分のウォーキング。

ゆっくりと自重トレーニングをするのがいいかもね。瞬間的なものではなく。

しなやかで強い肉体。筋肉とかじゃない、肉体。

⑤ポジティブにいる。

 

23歳にしてジャニーズにがっつりハマるとは思っていなかった。

最高である。

音楽番組、YouTube、雑誌、MV。に、ドキュメンタリーが加わるともう泣いちゃう。

推すわ、そりゃあ。

ライブが本業って言っているのであればいつか行かなきゃなあと思う。

すごくプロフェッショナルだ。見習うことしかない。すごい。かっこいい。プロ。

こういなきゃと思う。思うよ!!

 

みんな10年以上ジュニアやってるの??まじかよ。すげえよ。すげえよ‥。

 

SixTONESのドキュメンタリー見て、ほんとにみんなないものねだりなんだなと思って、声が嫌いとか、あの人にはこれがあるけど自分にはこれがないとか、マジでそんなことなくて、みんなそれぞれ全部素敵だし、お互いにないものを持っているからこのグループがとても魅力的なんだなと思った。それぞれが自由に自分らしくいて、でもひとつのかたまりだからわたしはすごく好きなんだよお、と思って聞いてた。

ということを学びとして、わたしもわたしのものを伸ばして伸ばしてすること。

そして私の中の基準は関係ない、自分に関する好き嫌いとか。こういう特徴で、こういうことができる。最高。でいい。他の人が好きと言ってくれるところはもう100自信持っていい。オンリーワンが一番つええよ。という学び。

わたしはアイドルがすきだ。

変化しましたか

2022年2月2日になった。

あと少しで学生生活が終わる。
すきなひと、とコンビニで立ち話をしながらとても悲しく、さみしい気持ちになった。

このブログ?を書いた日がちょうど一年前で驚いた。
今と考えていることは大きく変わっていない。取り巻いている問題も変わっていない。
進む先らしきものが決定されただけで、本質的にはわたしの生活の中にあるものは変わっていなかったのだなと思った。

「花束みたいな恋をした」を観たのがたしか3月。
それからもう1年経ってしまうのか。とても早いな、日々は。

文字を書くことがおそろしくなって、日記のようなものを書くことも、自分の言葉を発信することも怖さがある。言葉に縛られることもだし、自分の中に入られることがいやだ。

自分の中の壁を強固にしたかもしれない。他者との境界をはっきり区別したように感じる。いろんなことへの諦めが生まれた。

人と接するのは苦手だ。いつまでも苦手だ。
ひとりでいたい。ひとりでいたいと思えるのは、ひとりじゃないからか。
心を許す相手が極端に少ない。すきではないひとと別に一緒にいたくない。
仲良くするのもめんどくさい。

すきなひととだけ一緒にいて楽しく暮らしたい。

きのうは朝から心が閉店していて、一日中寝ていた。
授業もパソコン教室もいかなかった。稽古も行きたくなかったけど、二人芝居だと行かなければいけない。めんどくさい。正直。

一年の変化、そうだなあ。
めんどくさいなあ、ってことが増えて、
計算高さが意識的なものになって、
生きている。

いつわたしは死ねるのだろうか。と真面目に考えている。
長すぎる、生き物としての寿命。
そもそも、明確に何かやりたいことがあって生きてきたわけではなく、
その時目の前にあったことをやって食いつないできたこの生。
どうしろというのだろうか。
長いって。

存在を否定されたんですか。と聞かれたけれど、そういうわけではない。
自分のことが一番嫌いなのは自分なのだと思う。
そして、そう感じているのはわたしだけではなく、わたしはあまりにも普通にしあわせで、恵まれていて、他の人と同じである。
そういうことを自覚しているのだからもうゆるしてほしい。

わたしは周りの人とうまくやっていけないのだから、うまくやっていける人たちで楽しく生きて行ったらいいと思います。
本当にめんどくさい。生きるのがめんどくさい。

誰のこともすきではないんじゃないか、という気持ちになる。
かまってちゃんですね、とも思います。

それも含めてめんどくさい。

これから歩まねばならない道先のことを考えると頭を抱える。

わたしがすきなものはわたしのものにならない。
この憤りも一年前と変わっていない。

わたしのものになったところで。その時に飽きてしまうのだろうな。
自分の愛情も信じられなくなってくる。

誰かとずっと一緒にいるということができるのだろうか。
ひとりで満足するだけの心持でもなく。

息を止めながら生きていても案外気づけない

SNSが苦手だという理由で、Twitterの知り合いたちをことごとくミュートしている。だから、友人・知り合いたちが何をしているのか、元気なのか、仕事は上手くいっているのかを、詮索する術を失っている。
物事は何であっても「飽き」は避けられないものだから、文章も同じ。たとえ、一時期とんでもなく救いになったものだったとしても。

こうやってブログに記事を書くようになってしばらく経つけれども、短い文章の連なりに甘んじていたら、系統立てて文章を書くことが億劫になった。あっちにこっちに文章が飛ぶ。

自分の言葉を綴ることが救いであった時期。周りの「強い」人の文章を読んで日々をしのいでいた時期。言葉が呪いのようになってしまうまでなんとか続けていたことも、あるタイミングで全て過去に追いやってしまった。
金曜日の夜友達と神社へ行き、おみくじを引いた。10年以上おみくじなんて引いていなかった。言葉では「信じない」とは言っていても、自分はすごく言葉に縛られやすい性質だということを知っている。
そして今回もまた、おみくじを引いたことで何かが変わったような気持ちになって、こういう風に文章を書いている。
久しぶりに知人のブログやTwitterを読んだら、2019年の自分に戻った気がしたが、同時に今はもう2021年であるということを痛く実感させられた。
私はハロー!エチオピアを経験した。単位も取り終わる。何の公演にも関わっていない。好きな人が変わった。ベッドがエアコンの下に移動した。変わっていくことを実感している。
地獄みたいな気持ちで過ごした2019年と比べれば、今は精神的には明るいと言える。「いつ死ねるのだろうか」というような思いは抱いていないし、自分を愛するということについて学び、実践しようと試みているからだ。
フィクションは私にとって「生」と同じで、フィクションがあるから生きれる、というようなこととも少し違う。今私が人間と社会との間でこなさなければならない「生」と、魂が没入する形で生きることができるフィクションの中での「生」と。
しかし今の私はフィクションの生から離れた生を生きようとしているところだ。
この挑戦によって「ふつう」だけでも生きられることを知るのか、やはり自分にはフィクションの生が必要だとしるのか、どちら。後者、で、あってほしいという願いがある。

フィクションがリアルに侵入してきたことは誤算だった。越えてしまった、というか。一度越えてしまったら前の状態では生きられない感じがする。本の中だけ、頭の中だけだったフィクションたち。演劇はそうはいかない。
「他にやるべきことがあるでしょ」ということが適用されるのは、私の場合、英語の勉強だったり、爪にマニキュアを塗ることだったり、するのだが。きっとここに演劇は含まれていない。
私にとってのトワイライトの文庫本が、今では演劇になっているのだとしたら、この身から切り離すことなどできないことに気づく。あまりにも演劇での生はリアルすぎるな。刺激的だ。

私がしたいと思っているのは、自己表現でもコミュニケ―ションでもなく、生活というところから乖離させてくれる強烈なフィクションに没入することなのではないか。

没入は私にとってとても大きな要素。
執着。さびしさ。祈り。
どんなことも、ハリーポッターやトワイライト、Iカーリー、ビクトリアスgleeがあったから生きてこれたのだ。没入なしに生を全うできない。
今辛いのは心底ハマれるものがないからなのかもしれないな。心の底では「ふつう」が嫌いなんだろう。
私は私じゃないものに、私としてなりたい。

自分以外の誰かになれるというのは、半分本当で半分嘘だと思う。
私はどうやったって私。それ以外のものを最大限変更することで、私以外になることができる。
自分を否定し、暴言を吐き続けていた時の表現と、愛しきったところからくる表現とでは何が違ってくるのだろう。そこが楽しみだ。

自分のことはここまででいい。

好きな人、はやはり四六時中頭の中にいるもので、いつもいつもその姿が現実として今目の前に現れることを切望している。疲れたときは特に。
こんなに愛されているということを知らないんだろうな、という気持ちになるが、「あなたは愛されているのよ」という言葉の濃さは、ともだちという関係ではいつまでも限界値を超えない。ハートが赤か、ピンクか、みたいな。
ただ、ハートの場合は赤が愛、ピンクが恋なので違うかもしれない。シンプルに、赤の濃さが濃くなり切らない、というべきか。
なぜいつも人から捨てられたり、幻滅されたりすることを危惧しているのだろうと思う。プライドからくるんだろうか。彼の心の奥底にあるのが、自分へのゆらぎない愛なのか、他者への恐れなのか。それはわからない。

私はあまい。弱さと、ずるさと。
いつまでもはっきりしないものを、「いいよ」としてしまっているのも、そこに救いを見出しているのも自分で。あまいならあまいなりにやっていくこともできると思っているけど。正しいとか、正解とかないし。

どうなりたい、という問いはうまく答えられない。親しくなりたい、もっと近くなりたいという願望と共にこの長い時間を過ごしてきたのであるが、親切な対応をされているようにも感じるし、最大限侮辱されているようにも感じる。
この感じ方は私の精神状態によって変化する。
どうなりたい。のでしょう。
コンプリートが想像できないからこそずるずると続けているのかもしれない。
一緒にいようとするのが習慣になっていることの幸せを感じながら過ごした10月以降。しあわせだった、と言える。真剣に考えて、そして行動に移さないといけないなと切に感じている。
今動かなければ。

ポップなSNSに触れている時とここで書いている時とでは空気が違う。書いていることも違う。いろいろなところで自分の言葉を書いたり消したりしているのは分霊箱と同じだな。飽きの積み重ね。

積み重ねた記憶が、ある、のだからそれに見合った結果がほしいと思う。のは本心。
私が私を愛せない限り、事態が大きく好転することはないよ、ということが分かった。

愛せ。