息を止めながら生きていても案外気づけない

SNSが苦手だという理由で、Twitterの知り合いたちをことごとくミュートしている。だから、友人・知り合いたちが何をしているのか、元気なのか、仕事は上手くいっているのかを、詮索する術を失っている。
物事は何であっても「飽き」は避けられないものだから、文章も同じ。たとえ、一時期とんでもなく救いになったものだったとしても。

こうやってブログに記事を書くようになってしばらく経つけれども、短い文章の連なりに甘んじていたら、系統立てて文章を書くことが億劫になった。あっちにこっちに文章が飛ぶ。

自分の言葉を綴ることが救いであった時期。周りの「強い」人の文章を読んで日々をしのいでいた時期。言葉が呪いのようになってしまうまでなんとか続けていたことも、あるタイミングで全て過去に追いやってしまった。
金曜日の夜友達と神社へ行き、おみくじを引いた。10年以上おみくじなんて引いていなかった。言葉では「信じない」とは言っていても、自分はすごく言葉に縛られやすい性質だということを知っている。
そして今回もまた、おみくじを引いたことで何かが変わったような気持ちになって、こういう風に文章を書いている。
久しぶりに知人のブログやTwitterを読んだら、2019年の自分に戻った気がしたが、同時に今はもう2021年であるということを痛く実感させられた。
私はハロー!エチオピアを経験した。単位も取り終わる。何の公演にも関わっていない。好きな人が変わった。ベッドがエアコンの下に移動した。変わっていくことを実感している。
地獄みたいな気持ちで過ごした2019年と比べれば、今は精神的には明るいと言える。「いつ死ねるのだろうか」というような思いは抱いていないし、自分を愛するということについて学び、実践しようと試みているからだ。
フィクションは私にとって「生」と同じで、フィクションがあるから生きれる、というようなこととも少し違う。今私が人間と社会との間でこなさなければならない「生」と、魂が没入する形で生きることができるフィクションの中での「生」と。
しかし今の私はフィクションの生から離れた生を生きようとしているところだ。
この挑戦によって「ふつう」だけでも生きられることを知るのか、やはり自分にはフィクションの生が必要だとしるのか、どちら。後者、で、あってほしいという願いがある。

フィクションがリアルに侵入してきたことは誤算だった。越えてしまった、というか。一度越えてしまったら前の状態では生きられない感じがする。本の中だけ、頭の中だけだったフィクションたち。演劇はそうはいかない。
「他にやるべきことがあるでしょ」ということが適用されるのは、私の場合、英語の勉強だったり、爪にマニキュアを塗ることだったり、するのだが。きっとここに演劇は含まれていない。
私にとってのトワイライトの文庫本が、今では演劇になっているのだとしたら、この身から切り離すことなどできないことに気づく。あまりにも演劇での生はリアルすぎるな。刺激的だ。

私がしたいと思っているのは、自己表現でもコミュニケ―ションでもなく、生活というところから乖離させてくれる強烈なフィクションに没入することなのではないか。

没入は私にとってとても大きな要素。
執着。さびしさ。祈り。
どんなことも、ハリーポッターやトワイライト、Iカーリー、ビクトリアスgleeがあったから生きてこれたのだ。没入なしに生を全うできない。
今辛いのは心底ハマれるものがないからなのかもしれないな。心の底では「ふつう」が嫌いなんだろう。
私は私じゃないものに、私としてなりたい。

自分以外の誰かになれるというのは、半分本当で半分嘘だと思う。
私はどうやったって私。それ以外のものを最大限変更することで、私以外になることができる。
自分を否定し、暴言を吐き続けていた時の表現と、愛しきったところからくる表現とでは何が違ってくるのだろう。そこが楽しみだ。

自分のことはここまででいい。

好きな人、はやはり四六時中頭の中にいるもので、いつもいつもその姿が現実として今目の前に現れることを切望している。疲れたときは特に。
こんなに愛されているということを知らないんだろうな、という気持ちになるが、「あなたは愛されているのよ」という言葉の濃さは、ともだちという関係ではいつまでも限界値を超えない。ハートが赤か、ピンクか、みたいな。
ただ、ハートの場合は赤が愛、ピンクが恋なので違うかもしれない。シンプルに、赤の濃さが濃くなり切らない、というべきか。
なぜいつも人から捨てられたり、幻滅されたりすることを危惧しているのだろうと思う。プライドからくるんだろうか。彼の心の奥底にあるのが、自分へのゆらぎない愛なのか、他者への恐れなのか。それはわからない。

私はあまい。弱さと、ずるさと。
いつまでもはっきりしないものを、「いいよ」としてしまっているのも、そこに救いを見出しているのも自分で。あまいならあまいなりにやっていくこともできると思っているけど。正しいとか、正解とかないし。

どうなりたい、という問いはうまく答えられない。親しくなりたい、もっと近くなりたいという願望と共にこの長い時間を過ごしてきたのであるが、親切な対応をされているようにも感じるし、最大限侮辱されているようにも感じる。
この感じ方は私の精神状態によって変化する。
どうなりたい。のでしょう。
コンプリートが想像できないからこそずるずると続けているのかもしれない。
一緒にいようとするのが習慣になっていることの幸せを感じながら過ごした10月以降。しあわせだった、と言える。真剣に考えて、そして行動に移さないといけないなと切に感じている。
今動かなければ。

ポップなSNSに触れている時とここで書いている時とでは空気が違う。書いていることも違う。いろいろなところで自分の言葉を書いたり消したりしているのは分霊箱と同じだな。飽きの積み重ね。

積み重ねた記憶が、ある、のだからそれに見合った結果がほしいと思う。のは本心。
私が私を愛せない限り、事態が大きく好転することはないよ、ということが分かった。

愛せ。