変化しましたか

2022年2月2日になった。

あと少しで学生生活が終わる。
すきなひと、とコンビニで立ち話をしながらとても悲しく、さみしい気持ちになった。

このブログ?を書いた日がちょうど一年前で驚いた。
今と考えていることは大きく変わっていない。取り巻いている問題も変わっていない。
進む先らしきものが決定されただけで、本質的にはわたしの生活の中にあるものは変わっていなかったのだなと思った。

「花束みたいな恋をした」を観たのがたしか3月。
それからもう1年経ってしまうのか。とても早いな、日々は。

文字を書くことがおそろしくなって、日記のようなものを書くことも、自分の言葉を発信することも怖さがある。言葉に縛られることもだし、自分の中に入られることがいやだ。

自分の中の壁を強固にしたかもしれない。他者との境界をはっきり区別したように感じる。いろんなことへの諦めが生まれた。

人と接するのは苦手だ。いつまでも苦手だ。
ひとりでいたい。ひとりでいたいと思えるのは、ひとりじゃないからか。
心を許す相手が極端に少ない。すきではないひとと別に一緒にいたくない。
仲良くするのもめんどくさい。

すきなひととだけ一緒にいて楽しく暮らしたい。

きのうは朝から心が閉店していて、一日中寝ていた。
授業もパソコン教室もいかなかった。稽古も行きたくなかったけど、二人芝居だと行かなければいけない。めんどくさい。正直。

一年の変化、そうだなあ。
めんどくさいなあ、ってことが増えて、
計算高さが意識的なものになって、
生きている。

いつわたしは死ねるのだろうか。と真面目に考えている。
長すぎる、生き物としての寿命。
そもそも、明確に何かやりたいことがあって生きてきたわけではなく、
その時目の前にあったことをやって食いつないできたこの生。
どうしろというのだろうか。
長いって。

存在を否定されたんですか。と聞かれたけれど、そういうわけではない。
自分のことが一番嫌いなのは自分なのだと思う。
そして、そう感じているのはわたしだけではなく、わたしはあまりにも普通にしあわせで、恵まれていて、他の人と同じである。
そういうことを自覚しているのだからもうゆるしてほしい。

わたしは周りの人とうまくやっていけないのだから、うまくやっていける人たちで楽しく生きて行ったらいいと思います。
本当にめんどくさい。生きるのがめんどくさい。

誰のこともすきではないんじゃないか、という気持ちになる。
かまってちゃんですね、とも思います。

それも含めてめんどくさい。

これから歩まねばならない道先のことを考えると頭を抱える。

わたしがすきなものはわたしのものにならない。
この憤りも一年前と変わっていない。

わたしのものになったところで。その時に飽きてしまうのだろうな。
自分の愛情も信じられなくなってくる。

誰かとずっと一緒にいるということができるのだろうか。
ひとりで満足するだけの心持でもなく。